バロック時代の音楽家にとって、楽譜は絶対的な教義ではなく、演奏のための「ロードマップ」でした。装飾音(フランス語でアグレマン)は単なる「飾り」ではなく、和声構造と感情表現に不可欠な要素です。重要な音を強調し、減衰の早い楽器(チェンバロやギター)の音を補い、そして何より聴衆の**「アフェクト(情動)」**を動かすために存在しました。
1. 同時性の原則:拍の頭が支配する
ロマン派に慣れた現代の奏者が最も混乱するのは、装飾音を出すタイミングです。
- オン・ザ・ビート: バロックでは、ほぼ全ての装飾音(トリル、アポジャトゥーラ、モルデント)は拍の「前」ではなく、メトロノームのクリックと同時に弾き始めます。
- 和声的機能: 多くの装飾音はバスに対して不協和音を作ります。拍の前に弾くと、その緊張感が失われます。不協和な音がバスとぶつかり、直後に解決する快感こそがバロックの美学です。
2. アポジャトゥーラ:魂の溜息
アポジャトゥーラは装飾音の「女王」です。感情的な重みを音に「寄りかからせる(appoggiare)」ために存在します。
- 持続の規則(C.P.E.バッハ): 2拍子の場合は音価の半分を、付点音符の場合は3分の2をアポジャトゥーラが占めます。
- 聖なる不協和音: 解決音よりもアポジャトゥーラをわずかに強く弾きます。これにより「緊張と緩和」の効果が生まれます。
3. トリル:輝きと懸留
バロックのトリルは、ショパンやリストとは異なり、ほぼ例外なく**「上拍(上の補助音)」**から開始します。
- 上から始める: ラの音のトリルなら、シから弾き始めます。これによりリズム的な懸留が生まれ、カデンツに輝きを与えます。
- 速度とアフェクト: アダージョでは感情の震えのようにゆっくり始め、ジグのような速い踊りでは電撃的に短く弾きます。
4. モルデントとグロッペ:アーティキュレーション
- モルデント: 下の音への素早い往復。リズムの「つまみ(ピンチ)」として機能し、低音にチェンバロのような打楽器的な性格を与えます。
- グロッペ(ターン): 主要音の周りを円を描くように動きます。優雅さと流動性をもたらし、跳躍する旋律を繋ぐのに適しています。
5. 美学:フランス様式 vs イタリア様式
- フランス様式(クープラン/ラモー): 貴族的な「エチケット」の音楽。装飾音は記号通りに緻密に弾くことが求められます。
- イタリア様式(コレッリ/スカルラッティ): 「自由」の音楽。楽譜は簡素で、奏者が即興的に華やかなパッセージ(パッサージ)を加えることが期待されます。
6. ギターにおける実践的課題
ギターの音の減衰を、装飾音によって美的に解決します。
- 持続: 長いトリルは、消えゆく音を繋ぎ止める役割を果たします。
- 音色(第14講): スル・ポンティチェロで弾けば金属的なチェンバロ風に、ドルチェならリコーダー風の響きになります。
サマリー
バロック時代(1600–1750)において、装飾音は単なる飾りではなく、アフェクトを表現し楽譜に命を吹き込む不可欠な道具でした。基本原則として「拍の頭」から始め、アポジャトゥーラによる和声的表現、上から始まるトリルによる輝き、そしてリズムを強調するモルデントを使い分けます。様式の違いはあれど、常に感情と曲の性格を最優先に演奏しなければなりません。
やってみよう:アポジャトゥーラの練習
メトロノームのクリックの「前」に小さな音を急いで弾くのではなく、主要音の時間を半分に割ります。
- 例: 2拍のファの前に、小さなソがある場合。
- 弾き方: 1拍目の頭でソを弾き、2拍目でファに解決させます。
- コツ: ソからファへはレガートで繋ぎ、一音目をわずかに強く、二音目を弱くします。これが典型的な「溜息」の効果を生みます。
